「スカイ・クロラ」制作記録 第2回 「映像・世界観とテーマの一致」(後半)

■ 「スカイ・クロラ」の縦構造

 前回、「僕は、若い人たちに伝えたいことがある」で述べたように、押井監督は、大人にならない子供たち《キルドレ》と、現代を生きる若者たちを重ね合わせ、その気分を丸ごと描くことを、本作のテーマに据えた。......

 押井監督は企画の端緒において、こう発言している。「今まで自分は、圧倒的情報量の映像と、膨大なダイアローグ(台詞)を通して、自分が言いたいこと、伝えたいことを描いてきた。(「イノセンス」はある種、その究極の形と言って良いだろう)しかし今回は、その手法を封じて、新しい演出方法で『スカイ・クロラ』を作りたい」そして、伊藤ちひろという若い脚本家にシナリオを委ね、「押井語」と呼ばれる長台詞を廃し、キャラクターの佇まいや微妙な芝居にもって、《キルドレ=生きている実感のない若者たち》が抱く気分そのものを描こうとしたのだった。

 彼らが生きる、雲の下の地上世界は、重たい雲がたれ込めた、重厚なレイアウトの世界としてデザインし、主人公の草薙水素や函南優一の、台詞と台詞の間に流れる感情の機微を丹念に描く。それに最も適しているのは、これまで培ってきた、日本人が最も感情移入のしやすい2Dアニメーション技術だった。「スカイ・クロラ」は、これまでの押井作品と比較して、圧倒的に作画枚数が多い。草薙水素と函南優一との間で盛り上がってゆく感情の高ぶり。退屈な日常を生きるキルドレたちの淡々とした日々。彼らを傍観する大人達の日常。それらを日本のお家芸である2Dアニメーションで表現する為、作画面だけではなく、キャラクターデザインにも新たな試みがなされた。キャラクターに関しては、また別の項で詳しく記すことにしたい。

 物語の主人公、キルドレたちは、思春期の姿のまま、永遠に生き続けることを宿命づけられた子供たちである。彼らは戦死しない限り、永遠に生き続ける。その姿は、恒久的な平和が実現したが故に、生きる意味を見失い、ある種退屈な日常を送らざるを得ない我々現代人の姿と重なる。皮肉なことに人間とは、死と隣り合わせにならなければ、生を実感出来ない生き物なのかもしれない。
 押井監督は、キルドレたちが唯一、自らの生(それは死の裏返しでもある)を実感できる場所=空を、地上とはまったく別の表現方法で描こうとした。その答えが、最新技術を駆使した3DCGアニメーションだった。まるで天国にいるかの様に、永遠に続く雲海。実写であれば壁に描かれた描き割りに過ぎない手描きの背景では、無限の奥行きを表現する事は不可能だ。どこまでも広がる、天国のような雲海を表現する為に押井監督は、3DCGスタッフに、巨大な3D空間上に、丸ごと空を作り出すことを要求する。予告編の雲の映像をご覧頂きたい。「スカイ・クロラ」では一切、実写の映像や、描き割りとしての背景を使っていない。最新のコンピューターで計算(レンダリング)するのに、たった1カットで1ヶ月かかったカットも存在した。本作で導入された3DCG技術に関しては、また別の項で紹介しよう。

 果てしなく続く、圧倒的質感の空。そこで、はかないほど軽々と舞う、キルドレ達の駆る戦闘機《散香》(サンカ)。キルドレ達が、忌み嫌う大人達の住む地上から解き放たれ、唯一生を実感できる場所を、これまでの押井作品ではあり得なかった鮮やかなブルーの色彩と、圧倒的な奥行きをもって表現する。2Dアニメーション技術と3DCG技術双方の特性を生かし、画面から伝わってくる空気感も含めて丸ごと演出すること。それが、「スカイ・クロラ」で押井監督が掲げたテーマだった。

 前口上の繰り返しになるが、10年後、20年後に、映画が世界のどこかで公開された時、作り手が何を描こうとしたのか──観客が見いだすことが出来る情報はフレームで切り取られた映像以外に存在しない。作品が歴史に残る為には、作品の映像表現の形式=世界観が、テーマと一致していなければならないのである。そして、これらの映像表現を駆使して描く世界をデザインするために押井監督は、アニメーション映画ではあり得ない、2週間という長いロケハンに出発する事になる。次回からは、世界観の構築と平行して行われたシナリオ制作、キャラクターデザインについて、書いてみたい。