「スカイ・クロラ」公開記念トークショー レポート2
8月21日(水)、前日の行定勲さん&伊藤ちひろさんに続き、押井守監督のトークショーが新宿バルト9にて行われました。この日は急な暴風雨に見舞われた新宿。その為、押井監督が劇場に到着したのはスタート3分前。そんな中、集まった観客のみなさんに向け、"「スカイ・クロラ」における映像表現とテーマ"について、たっぷりと語っていただきました。......
※ネタバレを含みますので、ご注意ください。
石井:監督編ということで、今日は押井監督に具体的な映像表現とテーマについてお話していただきます。
押井さんがある時「映画はキャラクター、セリフ、ストーリーだけではなく、映像とテーマが一致していなくてはならない」と言っていました。「宣伝・劇場公開が終わって5年後、10年後に世界のどこかで上映された時、お客さんのもとに残されるのは映像だけ。その映像から監督が伝えたかったことが伝わらないと映画は歴史に残らない」と。「スカイ・クロラ」は雲の上は3D、地上は手で描いた2Dの二つの表現で作られていますが、監督は「映像と伝えたかったテーマをつなげて作った」と言っていますので、そのあたりを教えてください。
押井:実は、雲の上の世界と、戦闘機に乗って離陸した後に見える地上の世界も3Dで作っていて、雲も全て3Dで制作しています。青空は典型を作って張り込んでいきますが、フレーム内に存在しない太陽を入れています。ただしコックピットの中にいるキャラクターは作画してあります。ご覧になった方はわかると思いますが、戦闘機は絶えず移動しているので、キャノピーのフレームの陰がキャラクターに流れるわけです。あれを作画で再現するのはどえらい苦労をしました。3Dのモデルを作り、人工の光源を置いて、戦闘機がロールをうったり、ターンしたりする時にできる影を、ダミーの3Dの人形に落とし込んで。ダミーといっても服も着ているかなり精巧に作られた人形ですが、そこに流れる影を今度は作画のときに1コマずつ全部写し取って描いています。そして、ハイライトや半球状のキャノピーに映り込んでいるコックピットの内部やパイロットなど、全部のリフレクションを合成して、さらにキャノピーを構成しているアクリル樹脂の細かな傷を加えてさらにリフレクションを加えていきます。飛行機が機動する度に全部変化するので、3Dを主として2Dを追従させていきました。
逆に地上になると主に2Dで描いていますが、実際は3Dをちょこちょこ使っています。主人公たちが開け閉めしているドアや引き出しは実は3Dで作っていて、それに背景で描いたテクスチャーを貼り込んでいます。だから見えないところで3Dを使っていて、ドライブインにある酒瓶などは1本ずつ3Dで作ってラベルを貼りこんで並べています。そうしないと細かい情報量が詰まった瓶がだーっと並んでいるドライブインの独特な雰囲気は出せないんです。
筆は幅があるので、その幅で描ける仕事しかできない。ハリウッドみたいに全部3Dで作るとか、どこかの巨匠みたいに全部鉛筆で描くとかではなく、両方必要だというのが僕の主張です。素材を一元化するということは、同じ考え方をすれば良いから、ものの作り手としては非常に作りやすいんです。だけと僕の場合はCGと手で描いたものをどうやって一致させるかとか、四苦八苦して影の映り込みを1枚1枚作るとか、ばかみたいに手間暇かけています。
僕は映画というのは様々なレベルの素材を上手く使いこなして、最終的にひとつの画面に合わせると必ずリッチな画面が出来上がると思う。レベルの異なる素材をいかに鍋に放り込んで料理するか、ということ。料理の深い味わいはそうやって出来るので、いつも色々なものをごたごた使うんです。だから実際の絵をスキャンして使ったり、写真こそ使っていないけれど、限りなく実写に近い素材を使うんです。今回はそれに加えて、演出的に2Dの素材と3Dの素材をいかに使いこなすかということを作品のテーマにしたかった。どうせ使うんだったらコントローラブルに素材を使いまわすことで、映画表現をより奥行きのあるものにしたかった。
空の上というのは彼らにとっては地上とは違う世界。それが作品にとって最大のテーマで、彼らは空を飛んでいる時に、生を実感する。つまり死と隣り合わせになっているときだけ、自分が生きていることを実感する瞬間がある。ただその世界は非日常の世界であって、非日常の世界に人間は一生は住めないわけです。例えば戦争していない世界であっても、コンサートやお芝居を観に行ったり、デートしたり、自分の日常とは違う時間は非常に素晴らしい時間になる。一方で会社に行ったり、家で洗濯したり掃除したりという時間は極めて退屈で、要するに人間は二つの時間を生きているわけです。
問題は、どんな人間でも非日常という時間は必ず終わって、日常に帰ってくるということです。彼らが戦闘機に乗って空で戦って、そこにどんなに素晴らしい世界があっても、ずっと飛び続けていたいと願っても、彼らの寿命が尽きる前に、燃料切れになるか、撃墜されて地上に帰るか。生きて帰ってくるか、死んで地上に落ちるか、いずれにせよ地上に帰ってくるとう事実は変わらない。それが彼らが負った宿命だったんです。だからどんなに辛くても僕らは日常に生きるしかないんだ、ということがこの作品の最大のテーマです。日常の世界の中で出会うもの、背負うべきものに出会ったときに始めて、違った種類の非日常の世界で体感した素晴らしい時間に匹敵する時間を獲得できる、ということを表現したかった。
それで空の上の世界と地上を明らかに違う絵柄で表現しようと思ったんです。違う絵柄といっても、上がモノクロで下がカラーとか、露骨にやるのではなくて、何となく手触りが違う、何となくそこで描かれている時間が違うという。お気づきになった方もいると思いますが、雲の上で飛んでいるときの時間と、彼らが地上でタラタラしている時間は、時間の経過が違う。映画の中では時間軸はいくらでも操作できるので、非常にまったりとした時間を地上で表現して、圧縮された濃厚な時間を空の上で表現しています。そのために情報量の在り処を変えたかったんです。地上ではドライブインの酒瓶や壁に掛けられた絵だったり、マッチ箱のラベルなど、ありとあらゆる場所に様々な情報が詰め込まれている。空の上では情報は雲や光彩の変化しかないんです。よりシンプルな情報で満たされた世界がいかに素晴らしいか、輝いて大きな広がりを持っているか。瑣末なディテールで満ちた日常との対比を鮮やかに描くことが恐らくこの作品のテーマと一致するだろうと。世界観とテーマの一致というのは、恐らく今述べたようなことだと思います。
どんなに勢いよく空に昇っても、必ず帰ってくる。生きて帰ってくるか、死んで帰るか、いずれにせよ帰ってくる。安全に着陸すれば翌日また空に上がる。撃墜されて地上に激突すればそこで終わる。いずれにせよ、人間は地上でしか生き死にできない、というような世界観。どこの国とか街というリアリズムというのは、それを実現させるための手段でしかなく、映画の中の世界観は構造的にドラマの本質と重ね合せて描かれるべきだと思います。
「イノセンス」は垂直軸の世界で、地下の深いところでバトーは人形使いと出会う。またエトロフの高い塔の世界、つまり俯瞰する世界で素子のいる町に到着する。素子は垂直軸の世界にいる。「イノセンス」に出てくる建築物がゴシック様式なのは、垂直線の建築様式だから。深い井戸の底と天井の世界、それはダンテの「神曲」から思いついたんです。人間というのは垂直軸の真ん中のところで、宙ぶらりんの人生を生きているということを表現したかったんです。
僕の映画は概ね垂直軸で構成された映画がほとんどで、たとえば「機動警察パトレーバー」で言えば、塔のてっぺんから飛び降りるところから始まる。「イノセンス」でも垂直に建ったビルの先端から始めたのは、僕らが生きる世界が垂直であることの表明でもあったわけです。
僕が言っている世界観とドラマの主題の一致というのは、そうゆうことを指しているんです。映画というものは絶えず構造的に、重層的に表現されるべきもの。
「スカイ・クロラ」で言えば、垂直軸で描くというよりは、雲で分断された地上と空という二つの世界。地上に絶えず空から降りてくるのを待つ存在がいる。それが犬だったりするわけです。空から降りてくるたびに犬が吠える。そういった構造をいかに作品の中に仕込んでいくか。地上では彼らは車やバイクに乗り、水平方向にしか移動していない。水平方向に移動しているシーンは地平線が全く動かない。移動感のない表現するために、絶えず正面か後ろから撮影している。ほとんど横方向に移動しない。縦に進めば進むほど移動感が消滅していく。そういったことがこの作品の一番大きな仕掛けと言えると思います。
石井:多分このお話はインタビューでも問われることがなかったと思うので、貴重ですね。
● Q&A
Q. 監督はスイトやユーイチのようにキルドレになりたいと思いますか?
押井:僕はティーチャ―みたいな奴になりたいです。堂々たる大人を目指しているので。でも誰の中にもキルドレの部分、子供でありたい部分は必ずあると思います。それは構わないと思うし、そのこと自体は不自然じゃないから。ただそのことで生きることは出来ない、という自覚があるかどうかが一番重要だと思う。自分の中にある子供、自分の中にある女性とか、女性の中にも母親的な部分、妹的な部分ってあると思います。もちろん女性の中にも男性的なものが存在するはずで、人間は自分が思っているような一元的な存在ではない。色々な形相を含んでいて、その中で自分が選び取った人格は何なのかというところが、自分が自分である根拠なんです。僕の中にも多分女性的な部分もあれば、子供の部分があると思います。要はそのことを自分がどう評価するかなんです。僕はどちらかといえば映画の中でも繰り返し語られる「大人の男」たることを目指している。肉体的にも精神的にも。まあそれはほぼ手に入れたかなと思います(笑)。
Q. ティーチャーのようになりたいとのことでしたが、実際にユーイチのように自分を殺しにくる人がいたらどうしますか?
押井:殺すよ(笑)。僕は自分が痛い思いをするなら相手に痛い思いをさせたいし、自分が死ぬくらいだったら殺した方がましだ、と考えるようになったんです。「大人の男」は別に暴力的な意味を指すのではなくて、そのような判断を瞬時にする人間。つまり、そういう覚悟の中で生きるということです。かつては侍とか武道家がそうであったように、精神主義的な話でもなければ、右翼的な話でもなく、生物として人間はどう生きるのかということです。女性でも自分の子供が殺されそうになった時にどうするか。殺そうとする人間をためらいなく刺せるか、あるいは子供の代わりに自分の体を投げ出せるか。これは家庭の話ではなくて、覚悟として生きるのが「大人の男」であり「大人の女」なんじゃないか。それを保留して生きることは今の世の中はいつだって可能で、結果を批判することもできる。自分の人生はそういう覚悟なしには生きられない、他人の人生はどうでもいい、社会的通念としてどうかも関係ない、というように考えてます。
Q.原作と比べてユーイチの性格が温厚になっていますが、何か意味があるのですか?(※ラストシーンのネタバレを含みます)
押井:原作を読んだときから基本的にこの映画の主人公は草薙水素だと思っていました。原作はユーイチの一人称で書かれているけれど、ユーイチの目から描かれた草薙水素なんです。だからこそ最後に語り手であるユーイチがスイトを射殺して終わる。つまりユーイチの一人称で語れていることからして、小説の必然として語り手は死なないわけです。要 するに結末が読めるんですが、映画は一人称ではない分結末が読めない。誰が主人公か最後になるまで分らない。僕はそれが映画の面白いところだと思う。まあ僕の理屈で言わせれば最後に地上に立っている人間が主人公なんです。どんなに魅力的な人物であろうと途中でリタイアした人間、途中退場した人間は主人公ではない。主人公は最後に生き残るもの。
最近「スカイ・クロラ」を特攻隊の映画と比較する人がいるみたいですが、間違ってない部分もあるけど、僕に言わせれば明確に特攻隊映画と違うのはやっぱり生きることをテーマにしていることだと思います。いかにして生きるか、生き残るか。最後に滑走路に立っているのは誰か、ということです。もしかしたらスイトも去り、瑞季が去り、犬が残る。その犬も去り、最後に白い滑走路と青い空と雲が残った。実は世界だけが最後に残る。風と共に人間が去っても、世界はびくともしない。そういう世界に生きているからこそ、そこに立つ理由があるんだということを考えて作りました。だからユーイチはどう捉えていいのか分らない不思議な男で、自分のことについて何も知らない登場人物なんです。それは日常の写し絵で、僕らは日常の中で自分に関する知識はどれだけ必要なのか、知らなくても対して変わらない。ユーイチはある意味で僕らなんです。そう考えて作ったから特徴のない男にどんどんなっていって、非常に消耗しました。多分普通のテレビのアニメシリーズだったら湯田川とか土岐野が主人公になるんだろうと思って作っていました。でもユーイチで成立してしまうところが、僕に言わせると映画の醍醐味です。よってたかって凡庸な何かを特殊な何かに仕立て上げることは映画でしか実現できない、そう考えて設定しました。



