「スカイ・クロラ」公開記念トークショー レポート1
8月20日(水)新宿バルト9にて公開記念トークショーが行われました。
今回登場していただいた脚本の伊藤ちひろさんと脚本監修の行定勲さん。司会は石井プロデューサー。
押井監督が「スカイ・クロラ」で描いたテーマの一つ、"究極の恋愛"をテーマに撮影秘話を交えて語っていただきました。
※ネタバレを含みますので、ご注意ください。
石井:押井さんが『春の雪』を観て、「今この時代にこういう恋愛映画を作る監督と脚本家がいたのか」と言ったんです。「今作られている恋愛映画は男女が出会って付き合い始めるか、ゴールインするまでの駆け引きを描いているにすぎない。でも本当の恋愛映画は二人が結ばれた後から始まるもので、『春の雪』はまさに貴族出身の主人公・清顕が自分が好きになった令嬢・聡子を手に入れた後、手に入れられなくなってから、彼女のことが狂おしくなって彼女を求めてしまうという映画。これこそが本当の恋愛映画であって、今若い人たちに知って欲しい恋愛の本質なんだ」ということで、行定さんと伊藤さんにこの映画のオファーをさせていただきました。今回オファーがあったときの印象や感想などをお聞かせください。
行定:押井さんの映画は、常に恋愛映画だと僕は思っていて、『イノセンス』や『機動警察パトレーバー2 the Movie』も男女がある同時間、好き嫌いを越えてわかり合っている二人の距離を描くというような、ストイックな恋愛映画が多かった気がします。多分、膨大な情報量の中に本質が隠されていて、それを解釈して自分が理解して勝ち得た時こそ押井映画は面白い、ということが多かったと思います。
今回はそれとは違うことをやりたいと最初に聞いていて、初め80年~90年代くらいに作られたヨーロッパ映画、フランソワ・トリュフォーやヴィム・ヴェンダースなどの話をしました。ただもう少し人と人とのぶつかりあいや葛藤が全面に出ているものをと話していたので、それだったら力になれるかもしれないと思ったんです。僕は脚本監修なので、話を聞いているだけで何もやってないですけど。映画の昔話をするような関係でしかなかったですが、押井さんがやりたいことはわかりやすかったです。
石井:行定さんと伊藤さんがコンビで作られた『世界の中心で、愛をさけぶ』『春の雪』『クローズド・ノート』は共通して人が失われてから始まるラブストーリーなんですよね。誰か過去に死んでいる。その死んでいる人間を思う、という構造の物語で、押井さんもそこに注目してこのお二人に脚本を任せようと決めたと思うのですが、その3作を作られた伊藤さんは実際にシナリオを書くにあたりいかがでしたか?
伊藤:物語の内容は人物を書いていくうちに広がっていったのですが、最初の構造などを作るのに苦労しました。原作がはっきり全てのことを言っているわけではないので、全てをクリアにしていって、押井さんが私に望んでくれている脚本の世界観がどういうものかを探りながら書きあげていった感じです。
石井:『スカイ・クロラ』の構造は、あまりに優秀であったために死ねず、戦線を離脱して司令官になった女性が、何度も生まれ変わってくる一人の男性を思い続けるというもの。
押井さんは「本来恋愛は相手のことを好きになって、相手のことを束縛したり、いつでも自分の方を向いて欲しいとか、とにかく相手を干渉するところから始まる。今、自分のまわりの若い人の恋愛を見ていると、傷つくのを恐れて相手が自分に振り向いてくれるところから恋愛が始まらないかと思っている気がする」と。そんな時代に、あえてスイトが記憶を失ってやってきたユーイチの中にかなり踏み込んでいく映画を作りたいと言っていたのですが、行定さんはいかがですか?
行定:僕は恋愛映画だと思って作った作品は1本もなくて、宣伝が言っているだけです。映画というものは人に関わるということなので、恋愛映画と言ってしまえば、どんな映画も恋愛映画だと思います。恋愛がストーリーに介在しない場合はかなり少なくて、戦っている者同士でも、男と女がそこに存在する限り、そこには恋愛が必ず入ってくる。それと同じなんです。
人と人が惹かれあうことをカテゴライズすると恋愛になってしまうけれど、押井さんはそういうことじゃないと考えていると思います。恋愛という言葉にある種の憧憬や憧れを感じていたりして観客が見に来ると思えるとするならば、世の中は恋愛に飢えている。本質的に押井さんがカテゴライズする恋愛はすごく嫌なものですよね。本気で恋愛して別れたらその人に二度と会わないだろうし。でも今の場合はそのようなことがすごく少ないでしょう。もっとフレンドリーな形で良い具合に関係性を保っている。それは多分人と人が関わっていない状態なんです。
宣伝では明るい恋愛、純愛とか使いますが、純愛というものは、明るく聞こえるからで、でも純愛といっても関わりを持つきっかけの話だから、それを純愛と言っているのだと思います。本当は関わりを持つということは底なし沼に陥ること。『春の雪』も相手のことを傷つけてめちゃめちゃにしているのに、男はそれに気付かずそれでも好きだと言っている。相手にとっては迷惑なのに、女は受け入れているのか、受け入れていないのか分からないところに向かっている映画。その強さが恋愛ではないかと押井さんは考えたと思うし、それは人と人との関わりを深く結び付けることを三島由紀夫が求めていた、そんな憧憬があると思う。そこがいいなと思って作ってきたので、今回の『スカイ・クロラ』もそこに届いている気がします。押井さんが描くものはすごくストイックだけど、僕らが脚本で関われせようとした主人公たちもよりストイックに見える。押井さんが内包しているものが他の作品に比べてわかりやすかったと思います。
石井:伊藤さんは今回、行定さんと作ってきていかがでしたか?
伊藤:今回この物語で一番軸になるのは、人にすごく執着するとか、自分の中で整理された感情ではなくて、渇望したり情熱が湧きあがったり、切羽詰って人生とリンクしたりする恋愛を描いた方が良いのだろうと思いました。
石井:監督が『スカイ・クロラ』を描きながら現場の若いスタッフに一番言っていたのは「とにかく人と関わることを恐れるな」ということでした。「スイトは何度も何度も目の前で自分の好きな人間が死んでいって、「今度はあなたが私を殺して」と言う。それくらい人のことを好きになる、つまり人と関わらないと本質的な意味で自分の人生は始まらない」と。ユーイチは最後まで人と関わることをしなかった男だけど、最後にスイトのためにティーチャ―を撃ち倒しに行くという変化をもたらします。そういう生き方をすることがこの時代を生きていく中で非常に重要なのではと言いながら作った作品です。
●Q&A
Q.ダイナーの前の階段にずっと座っている老人は、何かを言おうとして結局一言も言葉を発さないですが、どのような意図で彼をおいたのですか?
伊藤:最初はいろいろやろうと思って置いていたんですが、最終的に押井さんがセリフを使わなかったので、押井さんとしてはセリフを言わなくても十分にその雰囲気を醸し出せる自信があったのでカットしたんだと思います。最初は「待ってるんだ」というセリフがあったんです。何を待ってるかは彼は語らないけれど「待ってるんだ」というセリフがありました。
石井:実はあの老人はティーチャ―なのではないか、という説が巷では広がっているそうですが、押井さんに聞くととその説もあると。もしかしたらマスターのお父さんかもしれないし、色々な解釈で観て欲しいと言っていました。
Q.原作を読んだのですが、原作ではユーヒチだったのをユーイチに変えた理由は?あと草薙を函南はどうして撃たなかったのですか?
石井:ユーイチに関してはユーイチの方が分かりやすかったからです。宣伝チームともすごく議論して本編の中でユーイチと言っているので、表記がユーヒチだと混乱するということで、原作の森先生にもご許可をいただき映画ではユーイチになっています。
伊藤:押井さんが今回描きたかったことが希望だったんです。あと最後に絶対に入れたいと言っていたナレーションがあるので、その言葉から考えて最後は何か原作のままの終わり方ではなくて、違うように描くべきなのではと考えて今のようにしました。
石井:あと押井さんは自分の映画の中で絶対に女性を殺したくない、という強い信念を持っているらしく、最初から草薙は生き残ると言っていました。
Q.函南が「君は生きろ、何かを変えられるまで」と言いますが、原作を知らないのですが、草薙はその後何かを変えられたのでしょうか?何かを変えられないとすると悲しいと思います。
石井:まず、押井守最終決定稿にはそのセリフはありませんでした。監督は無言で伝えたいと話していたんですが、プロデューサー側からあのシーンはユーイチが何を思っているかをユーイチに言わせたいと話をして、僕らからありとあらゆる案を出したけれど、ことごとく押井さんに却下されました。困り果てて伊藤さんに決定稿をいただいた後だったにも拘らず、そのセリフだけお願いしました。1週間後に「君は生きろ、何かを変えられるまで」でいかがでしょう、といただきました。
伊藤:私の中ではエンドロールが終わったあとのシーンに繋がるんです。『スカイ・クロラ2』とか3もやりたい気分ですが、大人は本当に年をとっていてキルドレは何度も繰り返されていく中で、ほんの少し何かが変わっただけで見え方が違うことが、希望だと思っています。
行定:『スカイ・クロラ』は9でも10でも出来ると言いましたが、変えないということですね。恐らくフーコなどは年をとってしまって、おばあちゃんになってしまいます。
完成した映画を見て真っ先に思ったのがスイトとフーコは表裏一体で鏡に映った形だということ。フーコはスイトを偶然助けることからしても、一人の男と肉体関係にあることにおいて表裏一体だと思います。大人のフーコはもう少し若い時に、ジンロウであったころのユーイチと出会っていて、そしてユーイチに出会い、また出会いを繰り返していくと思います。その繰り返す形の中で、死んでいく者より残されていく者の方が何を受け取るのか、ということにおいて微妙な動きあると思います。人が死んだ後に残る思慕が一番大きい変化です。その積み重ねが人間の中で記憶となり全てを形作っているんです。多分人間の行動はすべて記憶から来ていると僕は思っているので、この話はそういったことを言っているんだと読み取ったんです。だからきっと変わらなくても良くて、変わらないけど周りの人たちの肉体が変わっていく。一番悲しいのはキルドレで、姿形がほとんど変わらない、子供のまんまいるというところ。きっと2、3と作ってもほとんど変わらないと思うけれど、実際はキルドレでない人たちで全部表現されていくことが、多分これから続いていくんだろうとこの映画を観たときにすごく感じたので、説明がない中でそれを感じられる映画はすごいなと思いました。



